本年度のノーベル生理学・医学賞の解説
藤澤茂義(理化学研究所脳科学総合研究センター)
2014年度のノーベル生理学・医学賞は、ジョン・オキーフ(John O’Keefe)博士と、エドヴァルト・モーザー(Edvard Moser)博士、マイブリット・モーザー(May-Britt Moser)博士夫妻の3人に授与されることが決まりました。受賞の理由は、私たちの脳のなかでどのように空間が認識されているか、その脳科学的メカニズムを発見したためです。
私たちは、ふだんの暮らしの中で、いろいろな感覚情報を受けています。たとえば街を歩いているとき、ラーメン屋の赤い看板が目についたならそれは視覚情報を受け取っているということですし、豚骨スープの匂いがしたならばそれは嗅覚情報を受け取っているということですし、店の中からラーメンをすする音が聞こえてきたならばそれは聴覚情報を受け取っているということです。それでは、私たちが街のなかのある場所にいるという認識、あるいは、私たちは空間の中にいるという認識は、どのような感覚情報から来ているのでしょうか?視覚情報でしょうか?たしかに、目を開いて街の風景を眺めることより、私たちは自分の立っている空間を感じることができます。しかし、同時に、たとえ目をつぶって鼻をつまんで耳栓をして歩いたとしても、私たちは自分のまわりに存在する空間の広がりを直感することができます。そうすると、私たちが空間を感じる力というのは、単純なひとつの感覚情報のみから来ているのではないことが分かります。
18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントは、この空間認識に関わる問題について深く考察しました。そして、彼は、空間はアプリオリに(経験に先だって)脳の中で認識される、と提唱しました[1]。つまり、人間は心の中に空間を直感的に認識できる能力を有していると考えたのです。空間というのは、ある意味で心的なものであり、私たちの外部にある世界でありながら、むしろ私たちがとらえざるをえない考え方に関わるものである、ということです。
ジョン・オキーフ博士は、彼の妻がカント哲学を研究している学者であったこともあり、この空間を感じる能力の脳科学的側面からの解明について早くから興味を持っていました。当時、すでに脳の中に視覚をつかさどる部位や聴覚をつかさどる部位などがあることは知られていたのですが、それとは別に、「空間認識をつかさどる脳部位」が存在するに違いない、とオキーフ博士は考えたのです。そして、それは海馬に違いない、と仮説をたてました。(海馬という脳部位は、感覚野からの出力線維が収束する場所であることと、海馬を損傷すると記憶障害が生じることが知られていたためです。)
オキーフ博士は、この考えを実験的に証明しようと考えました。そして、海馬に「場所の認識」に関わるニューロンがあるかどうか調べるため、ねずみ(ラット)の脳の海馬に微小電極を埋め込んで、そのねずみが四角い箱のなかを自由に動き回っているときに海馬ニューロンの活動パターンを電気的に記録して調べたのです。この実験がまさにビンゴでして、ある海馬ニューロンが、ある特定の場所(たとえば南側の壁の近くとか、北東の隅っことか)で発火活動をすることを発見したのです。彼はこのような場所依存的に発火活動するようなニューロン、つまり場所情報を記憶したり表現できたりするようなニューロンを「場所細胞 (place cells)」名付けました[2]。
海馬にはこのような場所細胞がたくさん存在して、それぞれの場所細胞はそれぞれ別の場所を表現します。そして、このような場所細胞が集まることにより空間における全ての位置がカバーされることになります。このことより、脳は、海馬のニューロンたちの発火パターンから自分が空間のどの位置にいるかという情報を知ることができるのです。これはまるで海馬に空間を表現している地図があるようなもので、このことよりオキーフ博士は海馬に「認識地図」が存在するという考えを提唱しました[3]。
オキーフ博士のもう一つの大きな業績は、「場所細胞の位相前進」という現象を発見したことです。ちょっと難しい単語が出てきましたが解説していきます。当時、オキーフ博士のマギル大学の同僚のヴァンダーヴォルフ博士が、海馬では10Hzほどの強い脳波(シータ波)が観測されることを発見していました[4]。脳波というのは、ニューロンの集団が同期活動をすることによって生成されます。そして、その頃、オキーフ博士は、友人のブザキ博士に訊ねられます。この、集団によって生成されている脳波と、個々の場所細胞の発火活動に関係はあるのでしょうか?、と。[5]これはいい質問だと思ったオキーフ博士は、さっそく実験して確認してみます。そして、ひとつのひとつの場所細胞の発火活動のタイミングは、シータ波という脳波によって精細に決められていることが分かったのです。シータ波が、オーケストラにおける指揮者のように、全員の活動するタイミングを決める役割をしているわけです。さらに面白いことに、ひとつの場所細胞の発火活動パターンは、シータ波に完全に同期しているわけではなく、ある法則に従ってタイミングがずれていく、という現象が見つかりました。タイミングがずれていく、というのをもう少し詳しく説明すると、シータ波に対して場所細胞の発火タイミングの位相(波の1サイクルの中での相対的な位置)が少しずつ前進していくというもので、オキーフ博士はこれを位相前進(Phase precession)と名付けました[6]。これの何が面白いか、ということですが、下の図を見てもらえばわかりやすいのですが、この現象があると、場所細胞の法則的な位相のずれのためにシータ波の1サイクルの中でもそれぞれの場所細胞の相対的位置関係が分かってしまう、ということです。つまり、空間表現が0.1秒ぐらいのシータ波1サイクルに圧縮されているわけです。私たちが道を歩いているときに、いままで歩いてきた過去の道筋と、これから歩いて行く未来の道筋の両方が、脳の海馬のなかでは0.1秒の一瞬で表現されているのです。
それでは、このような海馬の場所細胞は、どのような情報入力により形成されているのでしょうか?この問題に取り組んだのが、オキーフ博士の弟子のエドヴァルト・モーザー博士とマイブリット・モーザー博士の夫妻です。モーザー博士夫妻は、嗅内皮質という脳部位に注目しました。嗅内皮質は、解剖学的に海馬の一段階手前にあり、つまり海馬に信号を送っている脳部位です。嗅内皮質は海馬よりも電極が届きにくい位置にあり、モーザー博士夫妻以前にはあまり生理学的な研究が進んでいませんでした。モーザー博士夫妻は、空間内を自由に歩き回るねずみの嗅内皮質に電極を埋入して、そのニューロンの活動パターンを調べたてみました。すると、嗅内皮質でも、海馬と同じようにねずみが現在いる位置に依存的な活動パターンが観測されました。ただ、海馬では、1個のニューロンは主に空間の1カ所でのみ活動するのに対し、嗅内皮質では同じニューロンが複数の場所で活動し、しかも空間的に等間隔で、かつ常に60度の角度をもった場所で発火活動が繰り返される、という驚きの結果でした。つまり、空間を正三角形で埋め尽くしたとき、その全ての頂点で活動するようなニューロンが嗅内皮質に存在したのです。このような発火パターンを持つニューロンを、モーザー博士夫妻は「グリッド細胞」と名付けました[7]。あたかも方眼紙のように空間に目盛りをつけているかのようなニューロンが、海馬の一段階前の領域に存在したのです。
オキーフ博士の「場所細胞」、およびモーザー博士夫妻の「グリッド細胞」の発見は、カント以来の問題であった私たちの心のなかの空間認識のメカニズムの一端を明らかにしたもので、脳科学分野において多大な貢献となりました。このたびのノーベル賞受賞を心より祝福したいと思います。
<図の解説>
(図1)海馬の場所細胞
ラットが四角い箱の中で自由に動き回っているとき、そのラットの海馬でのニューロンの活動パターン。海馬ニューロンはある特定の場所でのみ活動する(場所細胞)ことをオキーフ博士は発見した。
(図2)場所細胞の位相前進
ひとつの場所細胞の発火活動パターンは、海馬のシータ波(約10Hz)という脳波に発火タイミングが調整されています。しかも、完全にシータ波と同期しているわけではなく、シータ波に対して場所細胞の発火タイミングの位相が少しずつ前進していきます。この現象のおかげで、シータ波の1サイクルの中でもそれぞれの場所細胞の相対的位置関係が分かってしまう、つまり、空間表現が0.1秒ぐらいのシータ波1サイクルに圧縮されているわけです。
(図3)嗅内皮質のグリッド細胞
ラットが四角い箱の中で自由に動き回っているとき、そのラットの嗅内皮質でのニューロンの活動パターン。嗅内皮質ニューロンは空間内の等間隔の位置で繰り返し発火する(グリッド細胞)ことをモーザー博士夫妻は発見した。
<参考文献>
[1] イマヌエル・カント著『純粋理性批判』
[2] O’Keefe J & Dostrovsky J. The hippocampus as a spatial map. Preliminary evidence from unit activity in the freely-moving rat. Brain Res. 34:171-5. (1971)
[3] O’Keefe J. & Nadel L. The hippocampus as a cognitive map. Oxford University Press (1978)
[4] Vanderwolf CH. Hippocampal electrical activity and voluntary movement in the rat. Electroencephalography and Clinical Neurophysiology 26:407-418. (1969)
[5] Buzsaki G & Vandderwolf CH. Electrical activity of the archicortex. Academiai Kiado (1985)
[6] O’Keefe J & Recce ML. Phase relationship between hippocampal place units and the EEG theta rhythm. Hippocampus. 3:317-30. (1993)
[7] Hafting T. et al. Microstructure of a spatial map in the entorhinal cortex. Nature 436:801-6. (2005)
<略歴>
2000年京都大学工学部卒業、2005年東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了。ラトガース大学分子行動神経科学センター、およびニューヨーク大学医学部神経科学センター研究員を経て、2012年より理化学研究所脳科学総合研究センターチームリーダー。